「カーリング」というスポーツをご存知だろうか。氷上のチェスとも呼ばれる、知性と身体能力のどちらも求められる高度なスポーツだ。

激しい動きがないので、知らない人が見るとスポーツだと思わないかもしれない。しかし、つるつると滑る氷の上で、約20キロもあるストーンを正確な位置まで滑らせたり、ストーンをコントロールするために氷を掃くには、鍛え抜かれた体と正確な技術が求められる。

加えて、氷の状態は会場や気候によって大きく異なり、ストーンの滑らせ方や戦略も大きく変わる上に、試合が進むと共に氷が解けたり削られるので、環境は常に変化する。変数が多く、様々な状況から最適な戦略を導くための高度な判断力が求められる。

それが、氷上のチェストと呼ばれる所以だ。

一度体験すると、その魅力に取り憑かれる人が多い競技だが、日本ではマイナースポーツの部類に入る。プロ選手はおろか、数年前までは実業団の選手も存在しなかった。

そんな環境で挑戦を続け、2018年に開催される平昌オリンピック出場の切符を手にした山口剛史。学生時代は、ラグビー、カヌーと全国大会にも出場した輝かしい経験を持つ山口が、世界に挑戦するための競技として選んだのはカーリングだった。

なぜマイナー競技で挑戦を続けるのか。彼の半生から、その思想背景に迫る。

苦手だけど楽しい。運動音痴の少年

「カーリングを始めたのは小学3年生のときです。地元のアウトドア企業の人たちが、自分たちが遊ぶ場所として倉庫の跡地にカーリング場を作ったのがきっかけです。たいした設備もないし、寒いから自然と水が氷るだけの環境でしたが、子供も大人も毎晩集まって氷あそびをしていました。

最初は、単純に夜みんなで集まれるのが面白かったんです。氷の上で遊ぶことが楽しくて、カーリング自体の面白さを感じていたわけではありません。

カーリングの面白さに気づいたのは、大人と混ざって試合に出るようになってから。やっぱり、自分の思い通りのプレーができたときが一番楽しいですね。中心に止めるとか、他のストーンの右端5センチに当てるとか。

いまでも、精密なプレーができる『人間ロボット』を目指しています。」

カーリング選手 山口剛史

山口は、北海道空知郡南富良野町という人口2,500人程度の町で育った。地元の学校は小中併設校で、全校生徒は30名にも満たない。そのため、チームスポーツをした経験はほとんどないという。カーリング以外にも、カヌーやラグビーで全国大会に出場した経験を持つ山口だが、運動は苦手だったという。

「スポーツは得意ではなかったんです。団体球技はやったことがないし、おまけに体が硬くて、鉄棒も倒立もできませんでした。オリンピック選手で同級生の目黒(現姓金村)萌絵や寺田桜子には、何をやっても勝てませんでしたよ。100メートル走、水泳、相撲、マラソン、全部負けていました。

だけど、体を動かすのは楽しかった。スポーツって、やればやった分だけ上達するじゃないですか。できなかったことができるようになっていくのが楽しかったんだと思います。

カーリングも最初からすごく得意だったわけではありませんが、楽しくてやり続けているうちに上達しました。周りの大人たちが楽しみ方を教えてくれたんですよね。カーリングは4人でチームを作るんですけど、僕は小学生の頃から30歳以上歳の離れたおじさんたちとチームを組んでいました。そのおじさんたちが、平等に扱ってくれたり、同じ目線で話してくれたのは大きいと思います。

冬のシーズンは、夕方3時から5時と、7時から9時は毎日カーリングをしました。練習量は多かったと思いますが、努力した感覚はありません。毎日、楽しく遊んでいただけです。それで、大会でも勝てるようになっていきました。」

オリンピックに出たい。世界で活躍したいという夢

とにかくカーリングを楽しんでいたと話す山口だが、小学生のときには、オリンピック出場の夢を描いていた。

「最初にオリンピックに行きたいと思ったのは、小学4年生のときです。常呂町の大会の会場に、『目指せオリンピック』という横断幕が掲げてあって、カーリングがオリンピック種目だと知りました。せっかくオリンピックがあるなら行きたい。そう思ったのがきっかけです。」

山口は小学生の頃から大会に出場し、小学5年生のときには北海道大会でベスト8となる。しかし、その後も北海道大会でいいところまではいくものの、日本選手権には出られない期間が続いた。そんな山口が世界の舞台に足を踏み入れたのは、高校2年生のとき。そこで世界との実力差を知るとともに、世界に手が届く実感を持ったのである。

「高校2年生のときに、U−21の日本選手権で優勝して、初めて世界選手権に出ました。しかし、他の国のチームが圧倒的に強くて、世界選手権では最下位。それでも、カナダとかスウェーデンとか、世界のトップレベルを間近で見れたのは大きかったです。世界にはこんなに強いやつがいるんだってワクワクしたんです。海外選手の実力が10だとしたら、自分は1とか2くらいかもしれない。でも、それだけ差があるなら、自分が知っているカーリングの幅はもっと広げられるし、もっとうまくなる可能性がある。そう感じたんです。」

冬はカーリングで世界大会に出場しながら、高校ではラグビー部で全国大会にも出場した。スポーツが得意ではなかった山口は、自分の強みにフォーカスすることで、一つ上の学年でもレギュラーを獲得した。

「ラグビー部に入って、他の人にはない自分の良さを見つけられるようになりました。僕は、身長170センチ体重60キロと、ラグビー選手としてはかなり小さいんです。どこで差をつけられるか考えたとき、キックされたボールを取ることが得意だったんです。その技術を磨いてアピールポイントにしました。また、体重が小さい分長く走れるので、試合中ペースを落とさずに走りきれる選手になるため、練習後も一人で走っていました。そういう自分の良さを気付かされてくれたのは、先輩や周りの一言だったりもしました。」

しかし、全国大会の1回戦では五郎丸歩選手がいた佐賀工と対戦し、0-146で完敗。大学からの推薦の話もあったが、ラグビーでは全国で通用しないと考え辞退。高校卒業後は、地元の役場で働きながら、カーリングでオリンピック出場を目指そうと考えていた。

「長野オリンピックの代表選手に、公務員カーラーがいたんです。当時、カーリングにはプロ選手おろか企業チームもありませんでした。自費で大会に出るのが普通ので、働きながらでないと続けられません。他に選択肢を知らなかったこともあって、地元で公務員をしながらカーリングを続けようと思いました。

ただ、公務員試験に落ちてしまい、大学に行くのも良いかなと思ったんです。僕の地元はカーリングの他にカヌーが有名だったので、大学でカヌーを勉強すれば地元に貢献できる。そう思って、強豪カヌー部がある駿河台大学に進学しました。」

夢が、世界で戦うという目標に変わった

駿河台大学のカヌー部のコーチは元オリンピック選手。また、部内には日本代表として活躍する選手もいた。世界で戦う日本人を間近にして、オリンピックに出たいという夢は、世界で戦いたいという目標に変わった。

「コーチや先輩が普段から、世界でどう戦うかといったことや世界選手権のコースの話などをしているんです。自分が知らない世界の話をしていることに憧れましたね。同じ日本人なのに、自分は日本で知らないことがたくさんある。このまま終わっていくのはもったいない。世界で戦うことを本気で考え始めました。」

世界で戦うためのステージとして山口が選んだのは、なぜカーリングだったのか。

「カヌーも手応えはあったんです。入部当初は、トップ選手が2分程度でゴールするコースを3分くらいかけて漕いでいたのですが、3カ月経つ頃にはトップとの差は10秒程度に縮まっていました。4年間練習を続けたら、優勝も狙える自信はありました。

ただ、世界で上位を狙えるかと言われたら、おそらく無理だと思いました。海外とはカヌーをする環境が違いすぎるんです。海外だと人口で作ったカヌー用の川がありますが、日本にはない。環境の差が大き過ぎて世界では勝てないと思ったんです。

それよりも、カーリングの方が世界を狙えると感じました。世界のレベルも何となくは分かっていましたし、当時は環境の違いも気づいていませんでした。同じ氷なので、そんなに変わらないと思っていたんです(笑)何より、昔からカーリングでオリンピックに出たかったので、カーリングに絞ることにしました。」

大学1年の夏には、駿河台大学から新たにカーリングチームを作った青森大学に編入した。スポーツ推薦で入ったことや、親に頼んで大学に通わせてもらっていることに後ろめたさはあったが、「自分の人生、あとで後悔したくない」という覚悟で決断したのだ。

本気で向き合うからこそ立ちはだかる世界の壁

ところが、青森での挑戦も順調にいったわけではなかった。オリンピックに出場するような成績は収められず、メンバー交代などもあり、2シーズンプレーした後は、現在所属するSC軽井沢クラブでの活動を始めた。本人にとっても、最初は想定外だったという。

「青森のチームは1年目でひとりメンバーが交代して、2年目でまたひとりやめましたが、チームは継続していました。そんな中、SC軽井沢のU-21のチームに助っ人として呼ばれたんですが、年齢制限のない大会は青森のチームで出ようと思っていました。

ところが、SC軽井沢のコーチが、U-21の大会に出たチームは、県の規定で大人の大会も出なければいけないと言うんです。そんなルールはなくて、コーチの嘘だったんですけど(笑)ちょうど青森のチームは、人が抜けたタイミングだったので、SC軽井沢で続けることにしたんです。

結果的には、それがよかったと思います。それまでは選手だけのチームでしかプレーしたことがなかったんですが、SC軽井沢にはコーチがいます。指導を受けながらやることでうまくなる実感を持てたんです。また、日本の多くのチームは守備的な戦術を選択しているんですが、SC軽井沢は攻撃的な戦術を採用していたことも大きかったですね。このチームでやることが、オリンピックに近づくと確信しました。」

SC軽井沢

大学4年時に軽井沢に移住。コーチの夫が経営するスポーツクラブでアルバイトをしながらカーリングを続けた。卒業後はスポーツクラブの選手としてカーリングを続けることになった。チームへのスポンサーはいなかったものの、国の強化選手として指定を受けることで、海外遠征費などは国の補助を受けることもでき、順風満帆に見えた。

しかし、その後は結果が出ずに苦労する日々が続いた。

「特に、2010年のバンクーバーオリンピックの出場を逃した後の3年間がキツかったです。日本選手権で勝てなかったり、そもそも日本選手権に出場できなかったりと、苦しい期間が続きました。海外での成績は少しずつ上がっていたのに、日本では勝てない。勝てるはずの試合に勝てず、精神的にかなり不安定になりました。1回負けただけなのに、予選を勝ち上がれないんじゃないかとビビってしまい、それがまた良くないんです。

お金の問題も深刻でした。強化指定選手から外れたので、海外遠征費などは自腹です。でも、海外に行かないと世界で勝てるようになりません。あまりにもお金がなかったので、ひとつのツインルームに4人で寝たりもしました。そんな状態で勝てるはずもなくて・・・悪循環でした。

当然、周りからの評価もよくありません。でかい口を叩いておきながら、結果を出せなくて。冬はカーリングをさせてもらって、通常の仕事はできないので、なおさらです。」

そんな状態でも逃げずにやり続けたモチベーションの源泉はどこにあったのか。

「つらくても、やめようとは一切思いませんでした。やっぱりオリンピックに行きたかった。誰も口にしませんでしたが、みんな同じことを考えていたと思います。

チームメイト4人のうち、私ともう一人は就職できましたが、他の二人は大学卒業後は夏はアルバイトでお金を稼ぎ、冬にカーリングをする生活です。そこまで人生を賭けていたので、簡単に諦めたくはなかった。また、日本で勝てなくても、海外での成績は少しずつ上がっていたので、世界で戦える自信は徐々に着いていたんです。世界一を目指せるチャンスがあるなら、諦めずにやり続けたい。そんな気持ちでした。」

強みを認識して、結果ではなく行動に集中する

転機が訪れたのは、ある海外遠征のとき。自分たちの強みにフォーカスすることで、行動が変わったという。

「カナダの遠征のときに、大負けしたことがあったんです。試合後にメンバーで話してるときに、俺らってこんなに弱いの?とう話題になって。そこから、自分たちの強みは何かという話に発展しました。

そのとき、自分たちの強みは、『攻撃的な戦術を取ること』だとはっきりしたんです。元々、攻めることが強みだったはずなのに、負け始めてから、確実に勝ちにいかなければと守りに入っていたんです。チームの中で攻撃するのか守るのか意識の差が出て、チーム力が弱くなり、結果として敗北につながっていました。要するに、自分たちの軸がぶれていたんです。

自分たちがやるべきことがはっきりしてからは、結果ではなくて、自分たちのスタイルを貫いた行動に目が向くようになったんです。例え負けても、攻撃的なスタイルを崩さない。ぶれずに強みを発揮することで、徐々に調子を取り戻していきました。」

しかし、チームが盛り上がっている状態で臨んだソチオリンピック予選では、最終予選で敗退。当時28歳だった山口は、引退も考えたという。

「世界で戦える手応えを感じていたときだったので、落ち込みましたし、カーリングを続けるか悩みました。でも、昔から失敗するなら30歳までと決めていたので、30歳になるまでの2年間はやりきってみようと思ったんです。30歳から先は、1年毎に全力でやってみて、ダメならやめようと。

それに、不完全燃焼感もあったんですよね。自分に対して『これまで本気でやってきたのか?』と問いかけたとき、出てきた答えは『本気ではなかった』。逆に、4年間本気でやれば、光が見えると思いました。」

第三者から見れば凄まじい努力だとしても、自分では本気と思えていなかったということだ。その後の4年間は行動が大きく変わった。

「以前は、練習をしていても、気分で練習メニューを変えてしまったり、とにかく練習すれば勝てるという浅い考えだったので、意識的に行動を変えました。特に始まりの1年目は空回りしながらも一生懸命やりました。

目標の立て方も大雑把だったので、長期目標、中期目標、短期目標を立てるという当たり前のことから始めました。短期の目標をクリアすることできちんと長期の目標に近づけるんですね。また、世界との実力を比べるときも、何が足りていなくて、何が足りているかを見つけられるようになりました。」

好きだから続ける。答えはいつもシンプル

前回のオリンピック予選敗退からの4年間は計画通りだと語る山口。その後、2016年11月のアジア予選、2017年3月の世界選手権を経て、念願のオリンピック行きの切符を手にした。

「アジア予選がオリンピックに行くためにかなり重要な大会でした。勝ち上がったときは、嬉しかったですね。一人で泣きました。」


9歳の頃から描いていた夢を実現したが、休んでいる暇はない。気持ちはすぐに切り替えて、次の目標に向かっている。

「最後の2年は世界で勝つことが目標でした。世界選手権で、5位、6位、4位、7位と、あと1回勝てばメダルを取れるというところまできた。なので、オリンピックが決まっても、オリンピックで金メダルを取るという目標にすぐに切り替えられました。

また、人生のゴールもこの数年で見直したんです。以前は、オリンピックが人生の目標だと思ってたんですけど、全然違うなって。カーリングを日本で発展させたいと気づいたんです。選手として世界でトップを取ることも重要ですが、それは通過点でしかありません。オリンピックが決まったのは嬉しいけど、やることはまだまだあるので、立ち止まるわけにはいきません。」

オリンピック出場が決まり、サッカーJ2の1万人の観客、プロ野球の3万人の観客を前に壮行会を行ったSC軽井沢のメンバー。世界選手権の最大の会場でも1万人程度しか観客が入らないカーリングと比べて、圧倒されたという。日本ではマイナーなカーリングを、今後どのように発展させるかは重要な課題だ。

「スポーツ選手にとって、応援は本当に力になります。1万人とは言わないまでも、まずは1000人くらいはお客さんにきてもらえるようにしたいです。」

最後に、これからの挑戦に対する山口の想いを聞いた。

「まずはオリンピックで金メダルを取る。その後、どれだけ現役を続けるかはわかりませんが、全力投球できる限りは選手を続けたいと思っています。いま、僕の目の前には世界一になるチャンスがあります。世界一になれるってめったにないことですよね。そのチャンスに恵まれている自分は幸せだと思います。

もっと先のことでいえば、カーリングをプロスポーツにしたいと考えています。カーリング選手の選択の幅を広げたいんです。僕が小さい頃は、企業チームもなかったので、地元で公務員になることしか選択肢が浮かばなかった。けれども、環境が変わったから企業で働きながらカーリングを続けられた。いまはない新しいカタチを作って選択肢を広げることが、カーリング全体を盛り上げると思います。」


新しいチャレンジには「不安もある」と話す山口だが、その表情は明るい。様々なチャレンジをしてきたからこそいまがあることを知っているのは強い。

そして、どんな困難な状況においても、一貫して「カーリングを楽しみ続けたこと」が山口の最大の強みなのかもしれない。「好きこそ物の上手なれ」という言葉を体現した山口は、これからも様々な姿を見せてくれるに違いない。

「カーリングは飽きないし、やればやるほど楽しいんですよね。きっと、指導者というか、一緒にやってくれた大人が一番楽しい部分を一緒に見つけてくれたんです。だから、大人になっても続けられたし、これからも続けるんだと思います。」

取材・テキスト / 島田龍男
写真 / 小林鉄斉


山口剛史オフィシャルホームページ
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