京都、五花街のひとつである「宮川町」にほど近い路地に、現代の「絵師」がいる。古き日本の色彩、「極彩色」をつかい、コンピュータ・グラフィックスで今の日本に絵を描く。世界遺産の寺社仏閣の襖絵などに宗教画を描いたと思えば京都で伝説的な人気を誇るクラブのフライヤー、ライブペインティング、ラブホテルの壁面画、インターネット上はもちろん、出産の無事を願って妊婦のお腹にほどこす「マタニティペイント」も手がける。使うは絵の具、墨、コンピュータ・グラフィックス、大きい筆に小さい筆、マウス、曰く「なんでも使って、どこにでも描く」。それが、京都の絵描きユニット「だるま商店」だ。

極彩色で“超解釈”する、日本の古典

極彩色菓子来迎安楽浄土絵図 / 南蛮寺の遺品が数多く伝わる妙心寺春光院の障壁画としておさめられている

この絵の舞台となるのは、戦国時代だ。戦国時代とは、ずいぶん物騒な響きだと思われただろう。長い日本の歴史の中で、この時代を「お菓子」で切り取った絵師は見当たらない。ただし、だるま商店を除いては。

戦国時代と聞いて想起するイメージは、さしずめ日本各地で群雄割拠する戦国大名の乱世だ。しかし、この時代に日本に伝わった「南蛮文化」となれば話は別だ。南蛮文化はまぎれもなく日本に吹いた新しい“風”だった。キリスト教、鉄砲製造技術、医学、天文学…西洋の宣教師や貿易商により日本に伝えられたそれらの技術は、当時の人々にとっては魔法のようなものだったのだろう。

「南蛮文化の中で、一番みんなの心に残ってるものを探していったところ、お菓子にたどり着いたのがこの絵です」

だるま商店のアートディレクター、島直也は語る。『極彩色菓子来迎安楽浄土絵図』は、南蛮文化のだるま商店流・“超”解釈絵図だと言えるだろう。

「日本人はお菓子を食べると、子どもからお年寄りまで笑顔になるでしょ。そんなお菓子をつくるための砂糖が初めて日本に持ち込まれたときは、大変な騒ぎだったはずなんです。金平糖なんて、甘くて腐らない、魔法の食べ物ですよ。砂糖に彩られた、織田信長が夢に見た安楽浄土を描きたいと思ったんです」

だるま商店アートディレクター 島直也

絵の右側には織田信長を象徴する安土城、左側には南蛮文化をもたらした南蛮船が描かれている。その間にいる人々をよく観察してみると、南蛮船からやってきた「南蛮人」、彼らと交流する日本人、そして巨大なカステラを運ぶ人々がいる。さらに、この時代に千利休によって完成され、後の日本に「わび・さび」の美意識を伝える「わび茶」などの「茶の湯」に興ずる人々も生き生きと細かに描かれ、その全てがけばけばしい色彩「極彩色」で彩られることで、新たな文化の芽吹きを感じさせる。

戦国時代につかの間現れたお菓子の浄土。ポップな見た目でいて、重低音の聞いた歴史のウンチク。これが現代の絵師・だるま商店ワールドだ。

「僕らは伝統的な表現で、今に伝わっている芸術作品を超えることはできないと思っているんです。今の時代に残っている過去の芸術作品は、全て壮大な歴史の中のトーナメントを勝ち残ってきたもの。そんなものに同じ土俵で真っ向勝負を挑んでもいいことはないんです。僕らのひとつの答がこの作風です」

色彩も極彩色なら、発想も極彩色。それがだるま商店の描く絵だ。

昔の描き方で、今を描く

だるま商店は、アートディレクターの島直也と、絵師の安西智からなる絵描きユニットだ。島が安西と出会ったのは2003年の東京だった。

当時、実家のある神戸から上京し、東京の広告代理店に勤めていた島は、CM制作やマーケティングの仕事をしていた。そして島は、独立を考えていた。そんなある日、とある飲み会で島は「焼酎めっちゃ飲んでる変なやつ」と遭遇する。目の前の席に座っていたその男は当然のように泥酔した挙句、「もう電車ない」と笑顔で困っていた。その青年こそ、安西だった。島は成り行きで安西を自宅に泊めることになった。自宅に着くと、安西は壁に飾ってある1枚の絵を見てつぶやいた。

「これ俺の絵や」

それは島が、2年前の2001年、東京ビッグサイトで開催されていた「デザインフェスタ」でたまたま買った、お気に入りの絵だった。

安西は「幼い頃から気づいたら絵ばかり描いていた」という、生粋の絵描きだった。「将来は絵描きになろう」と思っていたが、親には「絵描きなんざ女がやるものだ」と馬鹿にされて育った。安西は大学進学とともに、家出同然で実家のある埼玉から東京に出てきたところで偶然、島と飲み会の席で居合わせたのだった。

島は日本髪や着物などの和の要素を現代風に描く、安西の絵が好きだった。ふたりは意気投合し、「ふたりで何かできそうだったらやってみよう」と試しにデザインフェスタに作品を出展することにした。そうして始まったのが、だるま商店だった。曰く「いつやめてもええ」というスタートで走り始めたユニットであり、それが今もずっと続いている。

絵に描いたみたいな話で生まれただるま商店が、現在のスタイルを確立する原点となった作品が『極彩色熊野古道曼荼羅』だ。

極彩色熊野古道曼荼羅 / 熊野古道巡礼の旅を1枚の絵におさめた、だるま商店の出世作

熊野三山への参詣道として知られる世界遺産「熊野古道」。古代から中世にかけて信仰を集め、今もなお多くの人々が参詣する熊野三山の、いわば「巡礼の旅」を一枚の曼荼羅におさめた。この曼荼羅は、昔の描き方を現在に置き換えることによって生まれている。

「この曼荼羅は江戸時代にあった『参詣曼荼羅』の画法に倣って描いたものです。江戸時代に流行した種類の曼荼羅で、当時、参詣者の勧誘に使われていたものです。つまり『熊野に行ったらご利益がありますよ』ということを絵で描くことで、アピールするわけです。当時、参詣曼荼羅を持って、江戸や京都を訪れ、参詣者を勧誘して回る仕事が大流行しました。江戸時代の後半には、なんと枕営業をしながら人を集める女性まで出てきたほどです。最も有名になったのが伊勢神宮でした。伊勢神宮の外宮は農業の神様。参詣した人は『伊勢暦』という稲作にとって重要な日程が書かれた『暦』を買って帰る。『この暦に沿って稲作を行えば豊作になる』と言われ、それが農家の間で大流行。『お伊勢さん』が世に広まったんです」

と島は話す。だるま商店のふたりは、絵を描く前に、徹底的に調査を行い、描く地を巡礼し、人々と話し、偲ぶ。絵の中を見れば見るほど、ふたりが出会ったものが細かく描かれていることに気づかされる。写真を撮りながら観光を楽しむ人々、巡礼をする人々、昔の逸話をなぞって描かれる人々、さらには京都から熊野三山のある和歌山を結ぶ「特急くろしお」も描かれている。

「この絵は、僕らが自分の足で歩いてきたところを、僕が見えたように、描いたものです。印象的だったのは、熊野の山の青さです。絵の中では山や森がとても青く描かれていますが、本当にこんな青さがあった。それまでに見た森や山とは全然違う感じがしました」

と安西は振り返る。同作品はユネスコ世界遺産「紀伊山地とその参詣道」でのコンペ「熊野古道曼荼羅コンテスト」での最優秀賞作品となり、だるま商店の知名度を一気に引き上げた。

京都で育った絵、京都に育てられた絵

『極彩色百舞妓おこしやす絵図』 / 京都五花街が一同に集う。現実では起こりえない心象風景を形にしているのは、描きこまれた実際の着物や日本髪など、細部のリアリティ

『極彩色百舞妓おこしやす絵図』で描かれるのは、京都の花街である「五花街」だ。京都の花街「五花街」ではそれぞれに季節の風物詩となる「おどり」がある。代表的なものでは祇園甲部の春の「都をどり」、宮川町の春の「京おどり」、先斗町の春の「鴨川をどり」、上七軒の春の「北野をどり」、祇園東の秋の「祇園をどり」だ。『極彩色百舞妓おこしやす絵図』では、これら五花街が一堂に集い、共演を果たす。なんと登場する着物と日本髪は、すべて実際に用いられているものだ。

「本の資料も調べますが、知り合いの芸妓さんに『今年の衣装はこんなんや。内緒やで。ネットで拡散したらあかんで』と写メを送ってもらったりすることが多いですね(笑)。また、春には僕があちこちの『おどり』を実際に見に行って、描いていきました」

と安西は話す。ただ表層的に描くのではなく、対象を内面から、さらには京都という街から知り、描いていく。そこで初めて描けるものがあるのだという。安西は着物の着付けも、日本髪を結うこともできる。マネキンをつかった独学と、近所付き合いもある「お茶屋さん」に出入りする人々に教えてもらいながら、習得していったという。

「今も練習していますが、日本髪はおそらく100〜200個くらいは結えます。日本髪って面白いんです。時代劇でよく見る髪型は分かりやすくするために、みな同じようになっていますが、身分によってはもちろん、結婚の有無でも違いがある。昔は『この人は人妻だから手を出してはいけないな』と髪を見れば分かったんです。さらに同じ江戸時代でも約300年間のうちに髪にもいろんな変化が生まれました」(安西)

だるま商店 絵師・安西智

同じく京都の「おどり」を扱った作品、『極彩色艶舞祭礼絵図』は、京都に春の訪れを告げる風物詩『都をどり』のフィナーレが華々しく描かれている

『極彩色艶舞祭礼絵図』 / 今は描かれなくなった、安土桃山時代から江戸時代初期の伝統的な「祭礼図」の手法を用い、現代の「都をどり」を描いている作品。

「日本髪のことは京都に来たことでより深く分かるようになりました。たとえば舞妓さんを卒業して芸妓さんになるときに結う髪が『先笄』と言います。もともとは関西の京都や大阪の若奥さんのする髪型ですが、舞妓さんの場合は『一人前になりますよ』という意味をこめて結われる。結う人が変わると、髪の意味合いも少し変わるんです」

と安西は語る。細部へのこだわりが、世界中の春という春を集めたような見栄えのする絵図としての完成を導いている。一方で島は京都大学の“知”にアートディレクションのインスピレーションを求めているという。

「絵を描いて新しいことを提案するためには、『もっと人間のことを知らなきゃあかん』と思っていろいろ勉強させてもらっています。人間のことを知るためには歴史も、宗教も、科学も必要です。京都には素晴らしき変態と天才の集まりである京都大学があり、ゴリラや少数民族からiPS細胞の研究までが集まっている。高名な先生方も、京都ではご近所さんや、よく行くお店の常連さん。たくさんお話を聞きながら、どんな絵を描いてどんなことをしたら人間はどう思うのかを日々考えています」(島)

だるま商店の絵の個性は、彼らが京都に住まう絵師として生き、ご近所さんと付き合う中で育まれたもの。京都という街で育った絵であり、京都に育てられた絵、それがだるま商店なのだ。

<後編に続く>

取材・テキスト / Akihico Mori
写真 / 高木孝一

だるま商店公式サイト
hhttp://dalma.jp/

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